黒猫の誤算(1)

衝動

全く…金のある連中は暇さえあれば、こんな所でパーティだ会合だと言っては飲み食いをし、
挙句には女を呼びつけて楽しむ。でもまぁ…そのお陰で俺も稼げるのだから感謝しなくては…って事なんだろう。
それでも、世の中というのはとことん強者に優しく、弱者に厳しい不公平で成り立っている。まじくそ世の中だ

むっちりとした絨毯が靴音を吸収し、物音一つしない廊下を歩きながら、天宮一沙は声にもならない声で呟き、
片手で前髪を掻き揚げると、もう片方の手を金色の取手に伸ばし洗面所のドアを開けた。
そして大きな鏡の前に立ち、そこに写っている自分に笑いかける。
すると、どこからどう見ても大学生には見えない鏡の中の自分が、一沙向かって笑い返し。
「お前は、今更学生には戻れないよ。諦めて不公平な人生を謳歌し、楽しめば良い」と嘲り笑う。

確かに…大学なんて、まともに行ったのは何時の事だったか。そんな事すら忘れてしまった。
始めは学費の為に始めたアルバイトだった。だが今では…どっぷりと首まで浸かって。
相手が誰であろうが…たとえ男でも、金さえ貰えばこの身体を使い相手の望むサービスをする。
だから…夥しい程の愛液と精液にまみれたこの身体は、洗っても、洗っても…汚れは落ちても匂いは落ちない。
今は、それすらもどうでも良くなった…筈なのに、いつも心の片隅で小さな声が聞こえていた。

誰か掴んで…俺の手を……誰か………。

個室の便座に腰掛けて、なんで自分はこんな処に座っているのだろうと思う。
下のロビーにはいくらでも寛げる場所があるのに…なぜにトイレなのか…と考えて、行きつく答えは。
自分は排泄行為の請負人だから、こんな場所が一番お似合いなのだ…と、自分で自分に納得させる。
そう…あれは単なる排泄行為。だから俺は…一度も満足した事がない。だから…誰とでも出来る。


空気のあおりで誰かが入って来たのを感じて時計を見ると、そろそろ約束の時間が迫っていた。
そしてこの後の数時間を考えると、いつにも況して気分が滅入ってくるような気がした。
それでも尻重に立ち上がるとドアを開き…戻ろうとして、洗面台の前にいる男にチラリと目をやった。
目に映ったのは見るからにオーダーメイドと判る背広を着たすらりと細身な後姿。
そして何気に鏡に移した視線が捉えたのは、うっすら上気した頬と、熱っぽく潤んだ瞳。
額に乱れる柔らかな髪と、たった今情事を終えて来たかのような色香を匂わせる細い首筋。

その全てが男の眼を引きつけ、甘い香りで男を誘う。
なのに…ただひたすらに愛しみ、自分以外の全てから守りたいと思わせるような…穢れを知らない蕾の風情で。
こんな男がいるんだ…そんなことを思いながら、一沙は鏡に写ったその男から目を逸らす事が出来なかった。
そして一瞬、鏡の中で二人の視線が絡み…男は徐に身体の向きを変えると一沙と正面から向き合う。
それでも一沙は、まるで足が床に貼りついたかのように動こうともせず男を見つめたままだった。

「私の顔に、何か付いていますか?」
少しだけ苛立ちを含んだ男の声。
その時になって一沙は自分が呆けたように男を見つめていた事に気付いた。そして、慌てて男から目を逸らすと。
「あ…すいません」
言いながら俯いた顔が熱を帯びていくのが判った。だが男は意外にも今度は穏やかな声で、
「いえ…私のほうこそ、大変失礼な言い方をしてしまいました。
少し気分が悪かったせいで貴方に当たってしまったようです。…申し訳ありませんでした」
そんな言葉で頭を下げ、一沙は顔を上げ男の顔を真正面から見て驚いたような表情を浮べた。

鏡越しに見るより悠に滑らかな肌と涙に煙るような瞳が眼の前にあり、
その肌に手を伸ばしたら…手を掴み引き寄せたら…この男はどんな反応をするのだろう。
仄暗い劣情に自分でも驚きながら、頭の中で…ガラス細工が粉々に砕け散る様が見えたような気がした。だから、
「いえ、僕の方こそ、ジロジロ見てしまい本当にすみませんでした」
そう言ってぺこりと頭を下げる。その様子が年相応に見えたのか、男の顔に安堵の色が浮かび、、
今度は幾分親しみを込めた声で聞いた。


「良いのですよ。どうぞ気になさらないで下さい。でも…もし宜しければ、一つだけ聞いても良いですか?」
「はい、なんですか? 俺に答えられることなら何でも」
「君は…どうして私を見ていたのですか?」
言いながら男は…自分はどうしてこんな事を言い出したのか…そんな不可解そうな表情をし、
一沙もまた、困ったような顔で…その問いにどう答えようか迷った末に、もう一度謝罪の言葉を繰り返した。

「すみませんでした…」
「あ、いいえ。こちらこそ、変な事を聞いて申し訳ありませんでした」
「はぁ…でも如何して…」
「そうですね…聞いておいて理由を言わないというのも失礼ですね。
私はさっきまで下で行われているレセプション会場にいたのですが…実は、何処にいらした来客の中にも、
その…君と同じように私を見る人がいるのです。その視線が気になって…そのうち気分が悪くなって。
お恥ずかしい話ですが此処に逃げてきたのです」
男はその場面を思い出したのか、潤んでいるような瞳を揺らめかせ僅かに眉を寄せた。

「はぁ…それはまぁ、何となく判るような気がすると言うか…なんて言うか」
一沙が言うと、男はやっと不快の原因が解消する…そう思ったのか、縋る様な目で一沙を見つめた。
「それは…私の何処かが変と言う事ですか? たとえば髪型とか服装とか…君から見て、変った所が有りますか?
今も、鏡に写った自分を見てみましたが…私には、何処が可笑しいのか判らないのです。
だから君に聞きたいのです。私の何処が変なのか、何がおかしいのか教えてください」

この期に及んでも男たちの視線の意味に気付きもしないその鈍さが可笑しくて、
その妙な勘違いが、見るからに自分より年上なのに可愛く思えて…それなのに苛立たしさを覚える。
だから…一沙は、クスッと笑いながら少しだけ男に近付く。
「……。お兄さんって…変」
すると男は、一沙の動きに何の警戒も見せず、二人の距離に気付きもしない様子で…更に聞いた。
「え? やはり変ですか? 私の何処が…変なのでしょう」
その言葉で、それまで声を殺して笑っていた一沙が声をあげて笑い出す。それは本当に楽しそうに…心を隠して。
そして、また一歩男との距離を縮め…伸ばした腕の中に抱きしめて…男の耳元で囁いた。

「ごめんなさい笑ったりして…お兄さんは少しも変じゃないよ。ただ、とっても綺麗だから目を奪われてしまう。
そして…こうしたいと思ってしまう。多分みんな同じだよ…きっと」
唇が男の柔らかい唇と重なり…その途端、男が「ヒーッ」 と、顔に似合わないような声をあげ…一沙を押しのけた。
「きっ、きみは! な、なんて事…言ったり、したりするのですか!
わたしは男です! 男性とキスなんて…優也以外絶対嫌です」
突然のキスに驚いたせいか、それとも隠し事の出来ない性格なのか…男がとんでも無い事を口走り、
一沙は驚いたように目を見開き、それからニヤリと笑った。

「へぇ〜、お兄さんのその色っぽさは優也って奴のせいなんだ」
「え? い、いいえ…その…優也って…誰ですか?」
「あれ? 今更惚けるつもり? 自分ではっきり言ったよね。優也以外とはキスしないって」
「そっ、そんな事言っていません!君の聞き違いです。そう、そうですとも、絶対聞き違いです。
私はゆう…夕方と言ったのです。うん、そう…夕方、間違いありません」
おそらく頭の中が真っ白になっているのだろう。男は意味の解らない言い訳をするが、
それでも、思わず口走った優也と言う男の事だけは誤魔化せた…と、本気で思っているらしく、
言い訳をする顔が幾分得意げにも見えた、それがどうにも可笑しくて…益々一沙の苛立ちをそそる。

「お兄さん可愛いね。良いよ、俺の聞き違いって事にしてあげる。お兄さんの言った事が正しい…そうだよね。」
一沙が念を押すように聞くと、男は疑問符を付けた顔でコクコクと頷く。そして…一沙の顔が更に近付き。
男の腰を引き寄せると…もう一度唇を重ねた。
男は一沙から逃れようと必死でもがくが、背中を壁に阻まれ逃げようにも逃げられず、
それでも、手で一沙を押しのけようと足掻く。歯を食いしばって一沙の舌の侵入を阻もうとする。
その頭を押え、男の両脚の間に片足を割り込ませ身体を密着させると、
「あっ!」 男が微かな声を上げ…目が大きく見開かれた。

男を最初に見た時から、この男は自分と対極にいる…そんな思いがあった。
男の纏う優美とも言える色香は、誰かの手によって生み出されたもの。そして其処には、自分には無い愛情という絆がある。
だから、この男はこんなにも綺麗でいられるのだ…その思いは確信になり、確信が無性に腹立たしく。
微かに開いた歯列を割って入り込んだ舌が口腔を蹂躙し、腰に回した手が尻を弄る。
「お兄さん…もう夕方だからキスはOKだよね。それで…夜になったらこっちも解禁になるの? 楽しみだな。
お兄さんの此処は何人の男を受け入れたの? 俺もその中の一人に混ぜて欲しいな。良いよね…お兄さん」
言葉が毒を含み、自分の手の届かない高みにいる男を引き摺り下ろそうと企む。

そして手が腰を這い、意思を持って前へと移動し。やがて目的の場所に辿りつくと布越しになぞる。
だが…其処に変化が無い事を知ると、その手は何の戸惑いも見せず、男のズボンのフックを外すとジッパーを下げた。
その時、大きく見開かれたままの男の瞳が漆黒の闇色に染まり、ゆっくりと瞼を下ろした。
瞼に掃かれた雫は男の睫毛を濡らし、頬へと零れ落ち…一沙の頬まで濡らす。
その温かさに…冷たさに気付いた時、一沙は自分の手が何をしようとしているのかに気付き唖然とした。

決して、男に対し悪意があった訳ではない。無いが…それでも妬みが無かったかと言えば…無いとは言えなかった。
抗う腕も抱きしめた腰も男にしては脆すぎるほどにか細く、僅かな力にも容易に砕けてしまいそうで…。
なのに、愛情と言う名の温もりに護られている幸せそうなこの男を…俺はどうしたかったのだろう。
そんな事を考えながら、手が無意識に男のズボンの前を整える。ポケットからハンカチを取り出し、涙に濡れた顔を拭いてやる。
その時、男の瞼がゆっくり持ち上がり、中から濡れて揺らめく瞳が表れた。
それは…闇に閉ざされた深海の静寂にも似て、そのあまりの暗さに、一沙は心が締め付けられる痛さを覚えた。

だがそんな一瞬の感傷は、こんな場所に不似合いなほどに大きい、男の声で吹き飛ばされてしまった。
「真澄! 真澄!」
名前を連呼しながら、飛び込むように入って来た誰かは、男の姿を見るとほっとした表情を浮かべ…。
次の瞬間には男の様子がおかしいのに気付いたのだろう。みるみる怒りの相を呈して、一沙を振り返った。
「貴様…真澄に何をした」
殺気にも似た光を孕んだ視線とは裏腹にその口調は静かで…なのに、ぞっとするほど冷たくて、
一沙は背筋に冷たいものが這い上がってくるのを感じて思わず後退さる。だが男性は、更に押し殺した声で、
「言ってみろ…何をした」
答えなければこの場で殺しかねない…そんな気配に、一沙はしどろもどろながら自分のしたことを口にした。

「だ…抱きしめて…キス…を」
「キス…真澄にキスをしたと言うのか」
「す、すいません。あんまり…そ、その…綺麗だったから。それから…色っぽくて…えっと…」
すると男性は怒りの表情に呆れかえったような表情を上乗せして、一沙の顔を一瞬だけ凝視した。それから
「このバカ者が! 貴様、真澄を殺す気か!!」
そう怒鳴ると、もはや一沙には用が無いとばかりに真澄と呼ばれた男の頬を両手で挟み、
一沙に向けた声とは雲泥の優しげな声で男に語りかける。

「真澄、私だ…博嗣だ。判るか…真澄」

【ひろつぐ? なんだ、このおっさん…優也って奴じゃないのか。それにしても…こいつ等って何者なんだ。
俺の周りにいる奴等とは別世界の人種である事には違いないけど、この態度のでかさは半端じゃない。
それに、俺とその兄ちゃんの扱いの違い…完全にバカにしくさってるとしか思えないよ。
けど一番癪にさわるのは…おっさんのくせに、まぁまぁってところだ】
等と心の中で不平を並べ立てていたら、またまたジロリと睨みつけら…挙句に、
「逃げようなんて思うな。お前には、後できっちり責任とってもらうからな…覚悟しておくんだな」
と釘を刺されてしまった。

確かに、逃げようと思えばとっくに逃げられたはずだ。
なのにどうしてその考えが、今男に言われるまで頭に浮かばなかったのか。一沙はそれを不思議に思いながら、
「はい…逃げたりしません」 と、自分でも呆れるほど素直に答えた。
居心地悪そうに突っ立っている一沙の目の前で、男性は片手で真澄と呼ばれた男を抱え、
もう片方の手でポケットから携帯を取り出すとボタンを押す。そして、

「私だ。真澄が疲れたらしくて少し気分が悪くなった。急いでホテル・ハイアットの4503号室まで迎えに来てくれ」
それだけ言うと携帯をポケットに入れ、男を抱き上げると憮然とした声で一沙を呼んだ。
「おい! お前」
呼ばれて、お前って…俺の事だよな。こいつ…俺にだけは、上から目線+傲慢そうなんだよな。
そう思いながら、一沙は黙ったまま男性を見上げる。すると男性は、やはり見下げるような目付で、
「お前…名前は…」と言った。

「はい…天宮一沙です」
「お前も一緒に来い」
「あ…は、はい」
名前を聞いておきながら、やはりお前かよ…心の中で愚痴ながらそれを声に出す事も出来ず、
一沙は言われるまま男の後に従う。
いくら華奢とはい言え男を抱えているのだ…それなのに、重さを感じさせない足取りで進む男性の背中を見つめ、
ややもすると遅れ気味になりながら…一沙は、はぁ〜 溜息にも似た吐息をもらした。

正直言って、自分がどうしてあんな事をしたのか解らなかった。あの時、あの目を見て…あの瞳に見つめられて。
魔がさしたと言うか…魅入られたと言うか…頭の中が得体の知れない感情で一杯になった。
恐らくこのホテルで開かれている何らかの集まりや、パーティの出席者たちと同じ場所にいる人間。
自分には決して手の届かないものを持って…それを当たり前と享受している人間。
そして自分は…彼らに金で買われる商品。だから…男を穢したかったのか、妬ましかったのか…それすらも判らなかった。
それでも男の光を失った暗い瞳を思うとやはり心配になって、前を行く広い背中に問い掛けた。
「あの…その人大丈夫ですよね。元に戻りますよね」
だが男性はそれには答えず、ドアの前に立つと一沙に背中を向けたまま言った。

「開けろ」
「はっ?」
「見て判らんか。私は手が塞がっている…だからお前がドアを開けろ。キーは左のポケットの中だ」
と、相変わらず不遜な態度で言い、左半身を一沙に向けた。
言われた左のポケットをさぐるとカードキーが指に触れ…一沙はそれを取り出してドアに差し込むと、
ドアマンさながらの態でドアを開ける。すると男性は驚いたような顔し一沙の顔を見つめた。
だがそれもほんの一瞬だけで、一沙は自分より上にあるその表情に気付きもしない。そして、
「お前も中に入って、ライトを点けてくれ。右の壁だ…」
男性に言われ、急いで壁のスイッチを探しライトを点けた。

地上四十五階建てのホテルは、近くに高層の建物がないため昼は遠くに海を望む事が出来る。
そして夜になると、外に面した大きな窓の下には色とりどりの光が瞬く光の海が広がる。
それを眺めながら雲上人の気分を味わえるこの部屋は、ホテル自慢の最上級の部屋。だと判った。
こんな部屋…一泊、幾らするんだろう…などと考えながら突っ立っていると、
「おい! ベッド…」
またまた男性に呼ばれ…ベッドルームを覗くと、男性は男を下ろしもせずベッドの側に立ったままだった。

見ると、ベッドはカバーに覆われたままで…そのせいで男を寝かせる事も出来ないのだろう。
一沙はそう思い、慌ててベッドルームに入るとカバーを剥がした。
すると男性は、抱いていた男をそっと横たえ。それから壊れ物を扱うように靴を脱がせ…ネクタイを外そうと声をかける。
「真澄…ネクタイを外すぞ」
だが、男性の手がネクタイに触れた途端男の身体がピクリと震え、華奢な手が結び目を押さえ頭が左右に揺れた。
それを見た男性はネクタイに伸ばした手を引き、その手で毛布を引き上げると、
「そうか…判った。それじゃ、そのままで良いから少し休みなさい」
そう言いながら、二三度男の頭を撫でる。その声や表情から、男性がどれほどその男を大切に思っているのか…が、
一沙にも手に取るように判った。と同時に、男の異様とも思える反応が不可解に思えたのも事実だった。

無理やりとは言え、たかがキスされた位で…。もしかしたら…過去にレイプでもされた事があるのだろうか…。
でも…そんな過去を抱えていたら、男の恋人なんて…。
そんな事を思いながら男の仄白い顔を見つめていると、何となく胸の奥がしくしくと痛むような気がし、
自分のした事がどれほど男を傷つけたのかを思い知る。だがその時、男性が一沙の腕を掴み、
引きずるように隣の部屋へ戻ると、一沙を突き放すようにしてソファーに座らせた。
そして自分も反対側の椅子に腰を下ろし…ネクタイの結び目に長い指をかけるとネクタイとカラーを緩め。
それから一沙をじっと見つめ…聞いた。

「お前…未成年か…」
その予想外の言葉と自分に注がれる視線がやけに痛くて…一沙はその視線から逃れるように俯いた。
そんな一沙に男性は…「答えろ! 未成年か…それとも成人か」 再度尋ね。
その語気の強さに黙ってやり過ごすのは無理だと悟った。だから、渋々ながらも答える。
「…十九…です」
「十九…か。良かったな、未成年で。だが…人と話をする時はきちんと顔を上げて話せ。
たとえ未成年でもその位の礼儀は弁えているだろう」
そんな説教じみた事を言い、一沙は驚きも手伝って思わず顔を上げた。

眼の前には、幾分呆れたような男性の顔。だがその口元は僅かに綻びを見せて…それに戸惑いを覚える。
そして改めて向き合って見ると、男性の容姿品位に関しては、まぁまぁどころかかなり上等な部類に属している事に気付く。
形よくバックに流れている少し長めの髪と、知性を表すかのようなほどよく広い額。
それと普通なら頂けないような眼鏡の奥の人を見下げるような目も、傲慢そうなもの言いをする唇も。
それら全てが嫌味な程魅力的に見える。だがそれは、多分…微かに浮かべた笑みのせい。
だから…素直に返事をするのが悔しいような気もして…一沙は答える代わりに男性を真っ直ぐに見つめた。

「当然だろう。お前が成人なら私は証人として、お前が真澄にした事を証言する。そうすればお前は即警察行だ。
けど未成年なら将来もあるだろうからな。お前が反省するなら許してやっても良い」
男性は益々訳の解らない事を言い…そして一沙は思った。
こいつは、あの男の為なら平気な顔で、事実無根の話を並べ立てる。たとえそれが人を陥れる事だとしても、
一片の罪悪感も持たないで、男を完全な被害者に仕立て上げるだろう。だから、未成年が免罪符だと言うなら…。
取りあえず今は、謝罪と礼を言ってこの場を逃れよう。それでも俺はやってない…と叫ぶのは嫌だから。

「あ、ありがとう…ございます。本当にすみませんでした。もう二度としません…許して下さい」
如何にも反省している…そんな顔で一紗は頭を下げ。それを信じたのかそうでないのか…男性は。
「しかし…お前もとんでもない事をするな。初対面でいきなり真澄にキスするなんて…呆れたよ」
そう言うと一瞬遠くを見るような目をし…窓の外へ視線を移した。
呆れたと言いながら、その表情と声は悲しいほどに寂しげで…男性の心の奥を垣間見たような気がした。

そして…あぁ、こいつは…あの真澄って男を愛しているんだ…何となくそう思った。




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