黒猫の誤算(2)  牧野博嗣×天宮一沙

屈辱とプライド

その時、ノックも無しにドアが開き一人の青年が飛び込んできた。
ジーパンにコットンシャツ、その上にジャケットを羽織っただけのその姿はどう見てもこのホテルの客とは思えず。
男性がかけた電話で外から駆けつけて来たのだろう事は容易に想像できた。
青年は男性を見ると少しほっとしたような顔をし…それから、「真澄は?」 と聞くと、
未だ少しだけ乱れている息を整えるように何度か深呼吸を繰り替えした。
そして男性はと言えば…青年を見上げた顔に予想外の困惑と、予想通りの満悦…そんな表情を浮べ、
「ベッドで休んでいる。それにしても早かったな…」 予想外の趣旨を問うように聞いた。

「タクシーに…乗ったら…渋滞に嵌っちゃって…だから途中で降りて走って来た」
「走って…か。まったくお前らしい」
そう言うと、ほんの数秒前一紗に見せた寂寞とした表情を綺麗に拭い楽しそうに笑う。
それは真澄という男に向ける顔とも違う、自分と対等な男に向ける友人の顔…そんなふうに見えた。
年齢も身なりも…目の前の男性と同じ場所にいるとは思えない青年。それなのになぜ対等なのか。
この青年はなぜこうも堂々としているのか…一沙にはそれが不思議でならなかった。

「しょうがないでしょう、混む時間帯なんだから。それより一体何があったんですか?」
「それがな…このバカ者が、真澄に無理やりキスしたらしい」
男性がいきなり一紗の痴漢的行為?を暴露し…一沙は目を点にして男性を見つめる。そして青年は…
「キス? こいつが真澄に?」
そう言うと男性の前に座っている一沙に初めて顔を向けた。青年の真直ぐな目が射るように一沙を見つめ。
一沙は…その視線に貫かれたような痛さを覚え…思わず青年から目を逸らし…俯いたまま上から降るだろう罵声を待つ。

だが青年は一紗に何かを言うでもなく…視線を男性に移すと事も無げに言った。
「そうですか…。それで真澄は?」
その一言は…こんな愚か者にキスされた事など些細な事…そう言っているようにも聞こえ。
お前の存在など眼中に無い…そう言っているようにも聞こえ…青年が男性と変わらぬ位置にいる。
そう思うと、無性に悔しさが込み上げてきた。それなのになぜか、自分と同じぐらいの青年の目が怖くて、
一紗はぎゅっと手を握りしめたまま顔を上げる事が出来なかった。なのに、時間は一紗だけを取り残し進み出す。

「真澄は奥のベッドだ。側に行ってやれ」
男性が言い、青年は聞くより早く隣の部屋へ入るとベッドの側に跪く。そして…男の髪にそっと触れる。
頬に触れ、ネクタイを握りしめたままの手に両手を添える。すると男の身体が一瞬だけ強張り、瞼がゆっくりと上がった。
茫然と虚ろな瞳が青年の顔を映し…青年はその瞳に向かってこの上も無い優しい声で語りかける。
「真澄、俺だよ…優也。ごめんな、来るのが遅くなって。でももう大丈夫…俺がずっと側にいるから安心して良いよ」
その声で、男の瞳の中の顔が徐々に鮮明になり…そして唇が動き…愛しい恋人の名を呼んだ。

「ゆう…ゆうや?」
「そうだよ…優也だ。真澄、判るか? 俺だ、優也だ」
繰り返し語りかけ…小さな顔を包みこむようにして自分に向けた。
細い腕が青年の首に絡まり、男は縋るように身体を寄せ…「優也…ゆう…や」何度も青年の名を呼ぶ。
青年はその身体をしっかりと抱きしめ、優しく背中を擦りながら…思いっきり軽い口調で言った。
「真澄、聞いたぞ。いきなりキスされたんだって?」
禁句とも思えるその言葉で腕の中の身体が一瞬身じろぐ。だがそれでも男の頭は、小さく縦に動いた。

「そっか…俺の真澄にそんな事をした奴は許せない。二三発一発ぶっ飛ばしてやりたいけど…良いよな」
青年が言うと男は少し間を置いて、今度は首を横に振った。
「どうして…真澄をこんな目に合わせた奴だぞ。俺は怒っている。だから…一発殴りたい」
「私が悪かったのです。私がもっと毅然としていれば…。だから…もし優也が怒っているのなら、私を…」
「そっか…それじゃ、俺の鬱憤は真澄に向けて良いんだな?」 青年が言うと
「はい、私の責任です…ですから、殴るなら私を…」
「よし判った。それなら、しっかり歯を食い縛って目を瞑れ。一週間は人前に出られないと思え…いいな」
「はい」
男はそう言うと背筋を伸ばし、青ざめた小さな顔を真っ直ぐ青年に向けた。

さっきまで涙に濡れていた瞳が静かに閉じられ…膝に置いた手を緩く握り、少しの怯えも見せないその姿は、
凛として美しくも潔く…孤高を持しているかのように見えた。青年は暫くその姿を見つめていたが、
ふっと口元に笑みを浮かべると、「いくぞ!」 そう言って顔を近付け男の唇にチュットとキスをした。
頬に痛みでは無く唇への柔らかな衝撃。男がそれに驚いたように目を開き、
「? ゆう…」 青年の名前を呼ぼうとしたが、青年はその言葉さえ飲み込むように更に唇を合わせる。
何度も、何度も…優しく。そして、その身体を引き寄せ腕の中に抱きしめた。

そんな二人を尻目に、一沙はまたも男性に引きずられるようにして別の部屋に移動させられた。
其処はさっきまでいたスイートと違い、間取りはワンルームですぐ目の前にはベッドがあった。
それでもおらくデラックスなのだろう。ベッドの向かいには落ち着いた雰囲気のインテリアボードとテレビがあり。
横にはソファーセットとデスクまでもある。一紗はそのソファーに座り…向かいにはさっきと同じように男性の顔。
そして男性が…不貞腐れたように窓の外を眺めている一紗に言った。
「お前は…男娼か?」
それは聞きたくも無い言葉…たとえ客にも言われたくない言葉。だから一紗は素知らぬふりで。
「男娼? なに、それ…」 
興味がなさそうに答えた。それなのに男性は、ご丁寧にその意味まで説明する。

「金で身体を売る男性の事だ」
そんな事は言われなくても判っていた。派遣ホストと銘打っているものの、望まれれば身体も提供する。
つまり男性の言う男娼。それでも面と向かって言われると、やはり馬鹿にされたようで腹が立った。だから、
「そんなの…あんたには関係ないだろう。それとも、俺を此処に連れて来たのは…そのベッドで俺と楽しみたいって事?」
態と卑俗な笑みを浮かべてベッドに目をやった。すると男性が…呆けているのかそれとも態と…なのか、
「馬鹿かお前。男とベッドに入って何が楽しいって言うのだ。まくら投げをして遊ぶ年齢でもないだろう。
それともお前は、男とベッドインするのが楽しいのか?」
そんな事を言いながら椅子から立ち上がり、ボード脇にある冷蔵庫を開けた。
そして中を見ていたが、清涼飲料水とビールを取り出すと、清涼飲料水を一紗に向けて放った。

眼の前で男性の長い指がネクタイを引き…緩める。僅かに頭が左右に振れ開かれた首元。
男性は手に持っていたビールを喉に流し込み…開かれた襟元で上下に動く喉仏がやけにリアルで、
目に焼き付き…その途端、広いと思っていた空間が狭まったような気がして。
一紗は、その首元から視線を窓の外に逸らすと手にしていた缶をぎゅっと握りしめた。
何もかもが気に要らなかった。何もかも…それが何なのか判らないが、ただ堪らなく不快でならなかった。
この高そうな部屋も、前に座っている男も。真澄という綺麗な男も…そして何よりあの優也という青年。
見るからに普通の若者なのに…自分とは全然違うあいつ…が一番腹立たしく思えた。

こんな奴らと同じ空間に居るだけで気分が悪くなる…息が詰まる。自分が…惨めになる。
そんな綯い交ぜの感情で…一秒でも早くこの場から立ち去りたいと思った。だから…もう一度男性に視線を戻し。
「俺のやった事チャラにしてくれるんだろう。そんじゃもう、帰って良いよな」
言いながら腰を浮かしかけた。だが男性は飲み終えたビール缶をテーブルに戻し…何気ない口ぶりで、
一紗の浮かしかけた腰を椅子に引き戻すような事を言った。
「そうだな。けどその前に一つ…お前、名前は?」
その問いは一紗の浮かしかけた腰を椅子に戻し、苛立たしさを更に募らせる。そして声を荒げさせた。

「名前なんて関係ねぇだろう! 聞いたって三分もすりゃ忘れちまう頭なら聞くな!」
「それは鳥頭と言う事か? だが鳥なら三分ではなく三歩だろう。それに私は、まだそれ程忘れっぽくはないつもりだがな」
等と小ばかにしたような事を言い、一沙は忌々しげにトイレでの会話を示唆した。
「だったら覚えているはずだろう! 最初に教えたんだから」
それなのに男性はその時の事など、まったく、すっかり、きれいさっぱり忘れているのか、
「ん? 聞いたのか?」
今度は記憶に御座いません…そんな顔で、聞いた事実を確認するかのように一紗に聞いた。

「ふざけんな! 人を馬鹿にしやがって。覚える気も無いくせに何回も聞くんじゃねぇ」
「そうか、聞いたのか…それはすまなかった。真澄の事で頭が一杯で、ついぞ気に留めていなかったらしい」
「ふん あんたは、あの女よりか弱い綺麗な兄ちゃんに気があるみたいだが…残念だったな。
あいつはあんたなんか眼中になくて、さっきの若いのが好きみたいだから…頭を一杯にしても無駄じゃねぇの。」
言いながら自分の吐き出す言葉で気分が悪くなるような気がした。別に相手が傷つくのを望んだ訳では無い。
それでも…男性の記憶の片隅にも無かった自分の名前が哀れに思えて、
ほんの少しだけ寂しくて…悔しくて…その歪曲した思いを投げつけてやりたかった。
だが続いて男性の口から出た言葉が、一沙の荒ぶった心を少しだけ凪ぎ、別の意味で興味を湧き起こした。

「確かに…か弱いな。けど、真澄がボディビルダーみたいだったら…ひくぞ それに格闘もあれには似合わん。
そう思わないか? あいつには、優しく、か弱く…綺麗なまま……」
男性は其処で言葉を途切り…僅かに眉を寄せた。それから、
「それとお前の言う通り、あの二人は恋人同士だ。それでも私にとって真澄は、たった一人の大切な従姉弟だ」
まるで自分の中の何かから目を逸らすように、はっきりとした口調で言った。
途切れた言葉の先に何を言おうとしたのか気にはなったが、男性と男の関係の方がもっと気になった。

「従姉弟…って、親戚ってことか?」
「そうだ。真澄は私の父の妹の子供だ。小さい頃から、父親の都合で日本を離れている事が多かったせいで、
一緒に遊んだりする機会は少なかった。それでも、毎日一緒にいる実の弟より可愛いと思っていた。
子供の頃から可愛くて…勿論今でも可愛い。だから…真澄が優也と一緒の時に見せた幸せそうな顔。
それを見た時…真澄にそんな顔をさせられる優也を認めた。真澄が幸せだったらそれで良い。
笑っていてくれたら…それだけで、私も嬉しいのだよ。大切な家族…だからな。
その真澄があの状態になって、私も少し気が動転してしまったのだろう。お前の名前を聞いた事も覚えていない。
本当にすまなかった。だからと言う訳ではないが、もし良かったらもう一度、名前を聞いて良いか?」
穏やかな声で話す男性の表情は、やはりどこか寂しげで…優しくて。一沙はそれに目を塞ぎ…ぼそっと答えた。

「一沙…天宮一沙」
「かずさ…か。お前らしい名だ。確か十九歳だったな。それで…もう一度聞きたい。一沙…君は男娼か?」
どうしてもそれが気になるのか、男性は再度確かめるように聞き、一紗は自分の中に湧き上がる感情に戸惑う。
会ったばかりの、それも嫌味で傲慢そうな男にどう思われようと関係無い筈なのに…なぜ自分は、
この男に自分のしている事を知られたくないのか。何度も問われることに失望を覚えるのか。
それが不可解でならなかった。それでも、気持の揺れを知られるのはもっと嫌な気がして、返事を先に延ばす。

「どうしてそんな事聞くんだよ」
「実は…下で開かれている祝典で、出席者の一人からそんな話を耳にした。
正確には、その後のパーティで若いホステス、ホストと遊べるからどうか…と誘われたのだ。
私は興味も無かったので聞き流したが…タイミング的に見て、お前もその若いホストの一人なのかと思ったのだよ。
もし違っていたら…失礼な事を聞いたことになる。申し訳なかった、許してくれ」
男性はそう言うと軽く頭を下げる仕草をしたが、本当は一紗もその遊び相手…そう確信しているのだと思った。
そして、自分には興味が無い…その言葉が遊びの対象である自分を蔑んでいるようにも聞こえ…一紗の胸に突き刺さった。

「…そうだよ。そのとおりだ。俺は、あんたの聞いたパーティに駆り集められたホストの一人さ。
表向きは派遣されたホストって事になっているけど、話の成り行きによってはその後のベッドにまで付き合う。
あんたら金持ちに、金を貰ってサービスしたり、やらしたりする最低の奴だよ…俺は。
だけどな。俺に言わせりゃそっちだって同じようなものだ。面白半分に金で男を買う腐れ変態ばかりだ。
最低なのはどっちも同じだろう。それなのに、なんで俺だけが馬鹿にされなくちゃならないんだ」
言いながらなぜか熱いものが込み上げてきて、一紗は歯を食い縛ってそれを耐えた。

「それは違うぞ。どうも私は、お前には誤解されるきらいがあるようだ。
人間の嗜好は皆それぞれだからな。私は決して馬鹿になどしていない。それだけは本当だ。
ただ、お前のような若者が金で身体を売っている。そう思ったら…なぜか気になったのだよ。
理由が知りたいと…いや、やはり気になった…と言うのが正しいのかな」
男性は言い、その言い方は不確かな自分の気持ちを探っている…そんなふうにも聞こえた。
もしかしたら本当に他意はないのかも知れない。そしてそれは…単純に自分に都合の良い誤解かも知れない。
それでも一紗はそう思いたい…と思った。だから、少しだけ柔和な声で少しだけくだけた口調で…言う。

「あんた…名前は。なんていうんだ? 俺の名前だけ聞くっていうのは、不公平じゃないのか」
「不公平か…それもそうだな。私は牧野…牧野博嗣だ」
尊大かと思えば意外に律儀さも併せ持っているのか、牧野は無防備な程簡単に自分の名前を告げた。
そんな牧野に一瞬見え隠れする寂しげな表情。それが心の襞に隠された想いなら…その心に触れてみたい。
そんな事を考えている自分に驚きながら、それを悟られまいと話の方向を逸らした。

「ふ〜ん…それで、さっきの綺麗な人は?」
「ははは、真澄か? なんだ、やはり気になるのか。まぁ、いきなり抱き付いて、キスしたくらいだからな。
あいつは千原真澄、さっきも言ったが私の従兄弟だ。そしてあの若者は真澄の恋人で、柴崎優也…大学生だ
だから、あいつ等にはかまうな。あいつらの間には誰も入れん。あの二人は…この世でたった一人の相手に巡りあった。
恐らく死ぬまで互いに互いしかいない。他の誰も代りになれない…唯一無二の相手だ」

「唯一無二?」
「地球上の人間全てを探しても他に代りはいない、未来永劫たった一人の相手って事だ。
たとえ男同士に生まれて来たとしても、その相手と巡り会ったら…やはり、たった一人の人になる」
牧野はそう言うとカーテンの引かれていない暗い窓に視線を向けた。
窓は鏡のように部屋の明りを映し外の暗闇と混在させる。そして牧野の瞳は、その暗闇を見つめている。
あぁ、やっぱり…こいつは、あの従兄弟が好きなんだ…一紗にはそんふうに思えた。
たった一人の相手…だから千原真澄はあんなに綺麗で、柴崎優也は…俺のした事にも気持ちを揺らさない。
それなら、牧野の想いは何処へ行くのだろう。そう思ったら切なさが込み上げて、口が思いもしない台詞を吐きだす。


「俺…本当は、あいつと同じ学生なんだ」
「学生…お前も大学生だったのか」
「うん…」
「そうか…それじゃ、ホストの仕事はアルバイトという事か」
「そう…俺ん家、お袋が居ないんだ。俺が中学の時死んで…それから親父と妹と俺の三人だけ。
お袋が生きていた頃の親父は…家に帰ったら風呂に入って、その後晩酌にウーロンハイを二杯飲んで…。
夕飯の支度が出来たら四人で夕飯を食べる。そんなちっぽけな事が楽しみで…一番の幸せだと言っていた。
けど、お袋が死んでからは…親父が家に帰って真っ先にする事は俺たちの飯の支度になった。
俺と妹の世話は全部親父の仕事になって…それなのに俺は、そんな親父を軽蔑すらしていた。

俺は親父のようには生きたくはない…もっと大きな望みを持って、バリバリ仕事をして、人生を楽しんで…。
そんな事ばかり思っていた俺が、国立を滑って、どうにか引っかかった状態で私立に入学した。
そのせいで、親父は無理をして夜まで働いて…挙句体を壊して倒れた。
もう良い歳なのに…全部俺の学費の為なのに…俺はそんな事すら少しも考えようとはしなかった。
だから…遅いかも知れないけど、これからは自分の事は自分で何とかするって決めたんだ。

そんな時、割りのいいバイトがあるからって紹介してもらったのが今の仕事。
最初は迷ったけど…他に稼げる仕事が無かったからさ。それに実際初めて見ると、本当に金は稼げた。
俺にはもう、将来絶対こうなりたいって希望も無いし…出来れば親父にこれ以上負担をかけたくない。
それに妹は俺と違って頭が良いから、すきな大学に行かせてやりたい。俺、今は結構稼ぐから…妹だけは……」
言いながら、自分はなぜこんな話しているのだろうと思う。始めて会った尊大でムカつく奴に…なんで…。
そして自分の頬が濡れているのに気付き、一紗は手の甲で流れるものを拭った。

辛い訳ではないし後悔もしていない。生活はできるし、少しだが貯金もできる。だから…これで良いはず。
なのに…どうしてこの男の前で涙を流すのだろう。それは多分…柴崎優也…の目を見たから。
古びたジーパンに安物のシャツ。それにジャケットを羽織っただけの地味で質素な…普通の大学生。
誰が見ても今の自分の方が洗練されて見えるはず。それなのに…あの目に、射抜かれたような気がした。
迷う事なく、ただ真っ直ぐに前に向かって進む強い意思を秘めた瞳に…背筋が震えた。
そして自分との違いを思い知った。多分あいつなら…決して諦めることなく自分の手で未来を勝ち取る。
牧野さえも認めさせる…強い意志を持って。その違いが悔しかった。そして牧野の目が…切なかった。

「そうか…。だが、お前にはちっぽけに思える楽しみや幸せが、私にはとても大きなものに思えるがな。
そしてお前たちを護ろうと頑張っているお父さんは、とても強くて立派な人だと思う。
そして、父親にこれ以上負担を掛けたくないというお前の気持ちも解らんでは無い。だが決めるのはお前だ。
一度は望んだ人生を勝ち取る為に足掻くか、捨てて別の未来を選ぶか。どちらを選ぶにしろ、決めるのはお前自身だ。
そうだろう? それで…差し迫った選択として今日のバイトは、どうするのだ?」
いきなり現実に引き戻され、一紗は時間がとっくに過ぎているのは判っていたが、惰性のように時計に目をやった。

「……。もう約束の時間は過ぎているから…スッポカシたって事になっている」
「無断欠勤と言う事か。派遣と言うからには、何らかの差損が生じるという事になるのか」
「多分…日給はしょうがないけど、頭数が足りないと、それを口実にサービス料を値切る奴もいるから…」
「そうか…それが全部、無断欠勤者に責任転嫁されるって事か。なかなかに阿漕だな。
それでは…私がお前を買った事にしてやろう。それなら無断欠勤にはならんのだろう?」
「買った?」
「そうだ。パーティに派遣されてきたお前を、私が真っ先に持ち帰った事にすれば良いのだろう? 勿論料金は払う。
そうすればお前は無断欠勤では無くなるから勤務手当も支払われる。良い考えだと思わないか?」
扨も名案…そんな顔で言った牧野のその言葉で、一紗の融けかけていた気持ちが一瞬で凍りついた。

「なんだよ、それ! 俺の事を可哀想だと思ったのか。ふざけるな! 確かに俺は、金をもらえば男でも女でも相手をする。
けどそれは、客が俺の事を気に入って指名してくれるからだ。金を払ってでも俺を相手に選んでくれた。
そう思うからこんな仕事も出来るんだ。あんたから見れば最低でも、どんなにくだらなくても、それが俺のプライドだ。
それをお前は…可哀想だから俺を買った事にしてやるだと。バカにすんじゃねぇ、自分を何様だと思っているんだ
そんなに俺を見下したいのか!!」

一紗は叫ぶように言うと、涙に濡れた目で牧野をギッと睨み付けた。
そして、すっくと立ち上がるとそのままドアに向かい廊下に飛び出した。
客に身体を任せるのにプライドなど微塵も有りはしない。あるのは屈辱と惨めさだけ。
それは一紗自身が一番良く解っている事だった。それでも、牧野にだけはそう言わなければ…悔しくて…ただ悔しくて。
少しだけ緩んだ自分の気持ちが殊更愚かしくて…本当に腹の底から…悔しくて、涙が止まらなかった。
だから、ドアの前でグイと涙を拭い…これ以上涙が零れないように顔を上げて…一歩を踏み出す。
惨めさと悔しさを踏みつけるように…音のしない廊下に高々と靴音を響かせて歩く。

そして部屋の中では、牧野がテーブルの上に残されている飲料水の缶に手を伸ばし手に取った。
それはさっきまで一沙の手の中にあった物。そして其処に残っている幾分かの温さが一沙の手の温もりのようにも思えて。
牧野はその缶をそっと両手で包むように握り締めた。そして、
「あれは…猫だな。毛を逆立てて威嚇し、直ぐに爪を出す。どう見ても野良の黒猫だ。
それでも、私がその野良猫の心を傷つけた事に変りはないな」
そう呟くと楽しそうに笑みを浮かべた。



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